時代を視る

2019年11月ニュースレター 時代を視る N0237号

2019年11月11日

win win代表 赤松良子

緒方貞子氏が亡くなられた。小さな巨人といわれた偉大な方だった。国連のHigh Commissioner for Refugees(難民高等弁務官)を勤めておられた頃、小柄な身体でヘルメットをかぶり、大きな男性たちに取り囲まれて、泰然とアフリカやアジアの子供たちの顔を見つめて語りかける姿は、忘れられない。彼女、50代。気力、体力共に盛だったから、続けられたのでしょう。

緒方さんは女性の未来を切り拓いた先駆者だとたたえられているが、とりわけ私にとって、すぐ前を歩んで行かれた方だった。1975年のInternational Women’s Year それに続く、1976~85年のDecade for Women(国際婦人年→国連女性の10年)に日本にも、大きな風が吹いて、女性たちの背中を押した。「女性の地位を向上させよ」との声が鳴りひびき、国際的な会議への代表にも女性をとの要請が出る。それに相応しい人を見つけるのは簡単ではないが、不可能ではない。1945年後の女性解放から30年経っているのだから。

まず、代表的なものとして、国連総会への日本代表は国連が出発した翌年頃から、藤田たき先生が代表(最初は代表代理だったか?)をつとめられたが、それをサポートする国連代表部には、正規の外交官だからすべて男性だった。ここへ公使として女性をおいて欲しいと、代表(もしくは代理)を送り出す女性団体は要望した。トップはかの市川房枝参院議員(藤田先生の盟友でもある)。

Decade for Womenの大きな流れの中、外務省も前向きに考え、白羽の矢をたてたのが緒方貞子上智大学教授だった。父君は外交官(中村大使)で、外国で青少年期を過ごされたのだから英語に苦労なく、(それ以外の外国語もお出来になられたことだろう)お子さんも大きくなっておられて単身赴任も可とあって、話はすすんだ。

国連総会への民間代表として出席した経験もあり、女性で初めての公使(外務省の正規の女性外交官はまだそこまで育っていなかった)という重責に立派に耐えられた。

3~4年の任期が過ぎ帰国されたあと、後任の公使には、外務省からはまだ無理として国家公務員上級職採用の女性からということになり、年次を考えれば赤松良子が適任ということで、そのように決まったと聞いた。国家公務員試験は1949年に森山眞弓氏が東大法学部在学中に応募、合格され、50年卒業、直後、労働省に法律職で採用された(赤松は53年採用)。

戦後、戦中には高等文官試験(行政職と司法職)という難関の制度があり、それの受験資格は大学卒男子とされていた。戦後、大学、国家試験が女性に開放され、高等文官試験は国家公務員試験に姿を変えたのだった。しかし、実際にそれの合格者を採用したのは戦後出発した労働省ただ一つで、それは1947年に婦人少年局が設立され、局長・課長のポストに女性が就くようになったためとされていた。(数ある省庁で女性を幹部、管理職にしようとするところはなかった)。「今昔(こんじゃく)の感」というのであろうか。そして今、パイオニアは逝かれた。享年92歳。