時代を視る

2017年1月 ニュースレター 時代を視る Vol.202

2017年1月7日

WIN WIN代表 赤松良子

2017年の新春は、おだやかな好天に恵まれ、びっくりするような変事もなく、とりあえず、おめでたく小正月(こしょうがつ)を迎えられる。15日を何故小正月 というのかを尋ねたら、元旦からしばらくは男が飲んで祝うので、15日にやっと女性が正月を迎えられるからだということである。お正月まで男女に格差がつけられていたのか。そういえば、私の子供の頃、やれ羽根つきだの、カルタ取りだのと浮かれていたが、母はお客の接待にうんざり疲れたような顔をしていたのが思い出される。もっとよく手伝ってあげればよかったのになどと今頃になって思っても、何とも遅すぎる「風樹の嘆」である。それでも長寿だった母の享年に、到達することができたので、一寸安心。(今年米寿を迎える)平均寿命がのびているのに、母より短くて逝ったのでは、あの世で母に合わせる顔がないと変な心配をしていたのだった。
そういう日の朝の新聞に、「高齢者75以上提言」という記事があった。
日本老年学会などが5日(2017年1月)、高齢者の定義を従来の65才以上 から10才引き上げ75才以上とすべきだとの提言をした、というのである。同学会は、10年前と比べると、5~10才若返っている、と指摘する。
この動きは、定年年齢さらには年金支給年齢の延長とも連動するのは必至かと思われる。定年は、私の若い頃は55才が普通だった。女性は50才と格差をつけた企業が多くあり、これを不満としての訴訟がおこり、定年年齢における男女差別として原告(女性)が勝訴したことは、判例批評を書いたこともあり、よく記憶している。
私自身の場合は、59才で国家公務員を退官となり、まもなく60才を迎えたところ、年金支給は65才からであった。いわゆる天下りで、小さな財団に就職してのんびり暮らしたが、まだピンピンしているのに、と残念でもあった。幸い、新しく設立された女子大に迎えられ、大学教授の経験が60を超えて始まった。これは定年が73才であったので後半は大学院専任となり、少人数の院生と仲良くボーボォワールなど読んで過ごすとができた。
高齢者の定義をどうするかは、定年年齢や年金支給年齢や他の社会保障制度と の整合性のこともよく考えて言わないと危険なのではないか。企業の定年は、個別企業の考え方=都合で決められるはやむを得ない。企業によっては、それと連動して年金を支給する所と、退職時の一時金だけで年金制はないところが あるが、これもやむを得ないであろう。そのためには積み立てをしておくのが普通であるが、そんな余裕のない企業のあることも事実だから(毎月あるいは毎週・毎日の給料の支払いで精一杯)仕方がない。従って、高齢者の生活を保障するための国民年金制度を国が設けておくのが、現行の制度である。その支給を何歳からにするかは、国の財政当局が知恵を絞って考えるわけだが、企業が定める定年年齢 と、国民年金支給の開始とがかけ離れていると問題になる。「高齢者」はそれらを現す便利な言葉なのである。もう一つ「生涯現役」という言葉がある。これは高齢者も働けというのか、働けるようにしてあげるというのか、響きは美しいが、財政的な 思惑を感じとるとしたら、深読みのしすぎであろうか?