時代を視る

2017年9月 ニュースレター 時代を視る Vol.210

2017年9月10日

WIN WIN代表 赤松良子

1994年の4月から6月末まで内閣総理大臣をつとめた羽田孜氏が82歳で亡くなられた。既に政界を退かれてから日も経っていて、静かな最期であったようで、死因は老衰と発表された。

私がお近くに居たのは、1993年8月成立の細川内閣で、副総理、外務大臣をされ、私は文部大臣。細川内閣のあと総理になられ、私の方は引き続き文部大臣に留任したので計10ヶ月余り、毎週、閣議の席で顔を合わせた。その後は、民間での仕事のみになったので、時折パーティーなどでお会いする程度だったが、近頃は東京を離れられたせいか、お目にかかる機会が絶えていた。私の方がちょうど6歳年長だが、女性の方が平均寿命が長いこともあり、こちらがお送りするようになってしまった。

羽田氏が最も輝いておられたのは、1993年から翌年6月までだったと思う。自民党を出て新党を作り、非自民勢力の中核となり、4月の解散、総選挙で躍進して、過半数割れした自民党に代わる政権を立てようと頑張った頃から、それが実っていわゆる55年体制といわれた長期政権が崩壊するのをみつめ、新政権の中核を担うべく、細川内閣に副総理として入閣し、基盤の脆弱な連立内閣を支えて、がんばっておられた頃だったと思っている。細川内閣は当初、大変な人気であったが、野党になった自民党が必死になって、首相のアキレス腱を攻めたてて、辞職に追い込んだ。それはいわゆる佐川急便事件といわれたが、首相が一億円を佐川から借り、自宅の山門(熊本藩主の名家だから、さぞ立派なものであろう)の修理に使ったと言って、実は政治資金としていたという疑いを、国会の予算委員会で、毎日毎日言い立て、首相を追及しのだった。その間、副総理として予算委員会で出席していても、問題は首相個人の金の問題だから、口の出しようがない。実質的に内閣の運営に力を傾けて居られたのであろう。

細川首相の辞職は、不毛の議論にほとほと嫌になり、誰にも相談せずに退任の発表をされたのだった。副総理への引き継ぎもなかったのか、とに角、次の首相指名まで、2週間の空白があり、その間、与党内ですったもんだのさわぎがあったようだが、内閣の人ではあっても、国会に議席のない私には、さっぱり動きがわからず、しかしとに角次の内閣ができるまでは、大臣として省に勤務を続けていたのだった。

やっと、羽田内閣が出発し、首相から留任を請われ、短期を承知でお受けした。2ヶ月間、予算委に釘付けになり、首相とは毎日のように顔を合わせた。それで、羽田氏の人となりはよくわかったのであった。政治改革(=選挙制度改革)に命をかけ誠実でケレンミがなく、信念を通す人だった。総辞職か解散かの二者択一を迫られた時の判断、解散すれば、内閣は生きのびられるが、折角国会を通した制度改革は、オジャンになって、また一から出直しとなる。それはとるべきではないと苦渋の決断をされたのであろう。首相と閣僚という関係がなくなったあと、親しくお話しを聞く機会もないまま、あの時のお気持ちはわからぬままのお別れとなってしまった。