時代を視る

2018年12月ニュースレター 時代を視る No.226

2018年12月12日

win win代表 赤松 良子

 

秋も終わり、今年もあとわずかになった。亡くなられた方の名を偲んで、昭和も遠くなったことを思うこの頃である。丁度一年前、高島順子氏が逝かれた。(12月10日)。まだ76歳だった。最近はお会いすることもなくなっていたが、私が雇用機会均等法の制定準備をしていた1980年代の前半には、彼女が労働省婦人少年問題審議会の委員をして居られ、法律を作るべきか、内容はいかにあるべきか、について、月1回ではとても間に合わなくなり、毎週、ひどい時は3日に一度というような頻度で、霞ヶ関へ来て頂いた。彼女は当時「同盟」(全日本労働総同盟)と呼ばれていた労働組合からの若い代表だった。審議会は三者構成と呼ばれ、「労働」「使用者」「学識」の三部から成っており、婦人労働部会、年少労働部会、婦人部会とに別れて、それぞれ、労働行政のお目付役を果たしていた。定期的に集まりを持つ以外に、法案作成前の審議には必要に応じて臨時の会合がしばしば開かれる慣行であった。

男女雇用機会均等法案(はじめは男女雇用平等法と呼んでいた)が審議会入りをしたのは1983年後半だったと記憶しているが、84年の寒い頃、佳境を迎え、ある雪の日に突然全館停電となり、暖房がバッタリ止まってしまって閉口したこともあった。

労働側の委員は、当時の労働組合の実態を反映して総評、同盟、中立労連から夫々一人が出て(全部女性)、がんばっておられた。総評代表が、かの山野和子女史! 仕立ての良いパンツ・スーツでさっそうと雄弁をふるって、使用者側(日経連代表)委員と事務局(婦人少年局)に対峙しておられた。この人と比べると年が若く、経験も乏しいので静かだったがちゃんと存在感があったのが、高島氏だった。労働組合の男性委員は時に、総評対同盟と対立し、事務局に利する傾向があったが、婦人少年問題審議会の女性委員達は、仲良く一体になって、あたりからつけ込む隙を見せなかった。「絶対、分裂しない。決意していました。総評の山野さんと密に連絡を取り、最後まで一緒にやりました」とご本人が「労働運動を切り拓く」(旬報社 2018年)で述べておられる。

このお二人、国連の「女子差別撤廃条約(1979年)」は女性労働者にとって重要で、その批准のためには「男女雇用機会均等法」が不可欠であるということをよく理解しておられた。そこで、審議会の中では手続き的なことで、いろいろイチャモンをつけて、事務局を困らせることはあっても基本的に、会を通すという点では一致していた。労働基準法の女子保護規定の一部を改変することの容認も可能だった。

今、高島順子氏を偲んで、その純粋で良心的なお人柄を想いつつ、心から御冥福をお祈りする。三隅佳子氏、

岩男寿美子氏は共に80歳代前半で亡くなられた。もっと長く輝いて頂きたかったのに・・・。鍛冶千鶴子氏(94歳)、塩沢美代子氏(93歳)、武田清子氏(100歳)はお歳に不足はないとはいえ、そのご不在は淋しい。

私も来年は90歳。人生100年に向けての第一歩と受けとめたい。