時代を視る

2015年6月ニュースレター時代を視る No.

2015年6月11日

WIN WIN代表 赤松良子

戦後70年の記念すべき年の憲法記念日を迎えた。この間、日本は一度も戦争をしなかった。近代国家として出発して140年以上経過したが、その前半は大きな戦争をいくつもし、「勝った、勝った!」と調子に乗り、最後に大きく負けて、国中焼け野原になってしまった。さすがに懲りて、以後、戦争をしない国として立ち直り、営々努力の結果、今日の平和で豊かな国を築くことができた。戦争が終わった時、私は15歳。生まれてすぐ(昭和5年)満州事変が始まっているから、15年間戦争ばかりしている国で育ったことになる。

父は芸術家気質(画家)で感覚的に戦争を嫌っていた様子だったが、それを口にすることの危うさも知っていたのだろう。家族に反戦論をしたような記憶は残っていない。母は戦争が続くと物資が不足してくることを感じていたらしく、子が困ることのないようにと生活に必要な物をため込んでいる様子であった。根が質素で堅実な姉は、贅沢を許さない時代になっても苦にならない風を見せていた。そういう人達の庇護を受けて、暮らしていたので、15年戦争が次第に拡大していった時代にも、私の生活は取り立てて不満はなかった。最後の1年半ぐらいを除いて。この期間は、日本中がメチャメチャになってしまったので、不満の持って行く所もなかった。ちゃんと月謝を払って学校で勉強していたのに、戦争に協力せよと兵器を作る工場へかり出され、学校へ行くのは月に2回の工場の定休日だけ。英語はおろか国語も数学も教えられる状態ではなかった。とに角、戦争に負けては大変だからと聞かされ、誰も文句を言わなかった。先生も親も。でも、戦争に負けたのだった。生まれ育った家も空襲で焼かれ、大事にしていた「のらくろ」(田河水泡のマンガ本)も「二等兵」から「大尉」までなくなった。若い時から描き続けた油絵の何十枚かを焼かれた父に比べれば、物の数ではないというのは今の感覚、その時は悲しかった。

お小遣いをためて買ったのだもの。もー、戦争は嫌だ。 ひきかえ平和の70年。はじめのうちは戦争の後遺症で、着のみ着のまま暮らしていたが、次第に豊かに楽しく暮らさせるようになっていった。何よりあの恐い赤紙(召集令状)がきて、働き手の男を引っ張っていくことはもうないのだ。国内は勿論のこと、国の外へもいつでも自由に出かけていける(金があればの話しだが・・・)。むつかしい論文だろうが、楽しい小説だろうが、読みたい本が読める。クラッシックだろうがジャズだろうが、聞きたい音楽が聞ける。いい国、いい時代である。平和であればこそ、なのだと戦争でひどい目にあった私の世代は感じている。

そして、これが憲法9条があるからなのだと知っている。世界中に戦争は絶え間なく起こっているのに、日本は巻き込まれないですんできた。9条のおかげに違いない。そう思っている。日本を「戦争のできない国」にしたからである。それを今、嫌がっている人達が力を持って、「戦争のできる国」にした。解釈改憲とかいう奇手を使って・・・。次に射程に入るのは「戦争をする国」であろう。恐ろしい。そんなことのないよう、今年の記念日、私達はしっかり考えなければならない。

(2015年5月3日)